2012.09.20.Thu / 11:18
「ネタバレ」あり。ご注意願います。
ゴッサムシティの平和を守る責務。
自己を犠牲にして、その重さに耐えてきた男。
しかし、ついに仮面を脱ぐときが来た。
後継者が見つかったから。
街に平和が戻ったから。
しかし、それ以上に感じた理由は、
バットマンという存在が永遠に成り得たから。
信念や理想は大切な行動原理かもしれない。
しかし、人が行動を起こす上で、それ以上に大切なもの。
何かを守りたい。勇気を与えたい。
命の危機の回避という根源的な欲求。
この映画は、
権力を持ってしまった信念の暴走を描いた映画かもしれない。
人を裁くことの難しさをも描いているのかもしれない。
けれど印象深いのは、
信念や理想だけでは人は生きられない。そして行動できない。
何かを守りたいという一途な思い。
そして、行動を起こすよう自身の背を押す存在の大切さ。
伝説となった男。
彼は人々の心の中の象徴となり、
正義を行おうとする人々の勇気になったのだろう。
心の中のヒーローを描いた映画。
悪を取り締まる者と罪を決める者との権限分離。
それは、公正な裁きを実施するうえで、
人が長い年月を掛けて考え出されたシステム。
刑が決まるまでに長い時間が掛かったり、
法の目をすり抜ける悪に無力であったりと、
完璧なシステムではないにしろ、
よりベターなシステムであるということが言えると思う。
一人の人間が悪を取り締まり、悪人に対する処罰を決め、それを実施する。
そんな巨大な権限を持つことを自らに課した男、ブルース・ウェイン。
それは、強い自制心と深い思慮が無ければ勤まらない役目。
ゴッサムシティを守るために自らの名誉を犠牲にすることも厭わない。
兵器になると分かれば核融合の技術も封印する。
それは悲しく感じるほどにストイックな決断。
前作では自らを犠牲にしゴッサムシティを救ったブルース。
そして8年間の間、世捨て人同然の生活を送る。
それは、彼が平和な世界に満足して引退したから、ばかりではない。
それは、恋人を失い失意の中で新しい一歩を踏み出せないから。
前作のラストで自らが汚れ役を買ってでたのも、
純粋に正義を守りたい、と考えたのではあろうが、それと同時に、
恋人を失って自業自得になってしまったから、とは考えすぎだろうか?
それらも相まって、理想の実現のために自身の人生の全てを犠牲にし、
捨て去り、世捨て人同然の生活を送るブルースが痛々しい。
しかし、再び闇に覆われようとするゴッサムシティ。
それを前にしてバットマンに戻りたい想いを抑えられないブルース。
正義を守りたいから、恋人が好きだった街を守りたいから。
警察に任せるべきだ、という助言を無視して、
自らの手で正義を行いたい、という欲求に従ってしまったブルース。
単純な勧善懲悪映画であれば、ベインを倒すことは純粋に正義だ。
しかし、この映画は、そんな単純な映画ではない。
ベインは私利私欲のために行動したのでもなければ、
自らの快楽のために暴力を振るったわけでもない。
影の同盟の信念のために、彼は戦ったのだ。
「シティは本当は市民のものなんだ」
富める者から貧しい者たちへの富の分配。
そして世界の浄化。
いわば、この映画で描かれているのは信念と信念との対決なのであり、
一方の信念を支持する者たちがいれば、他方を信じる者たちもいる。
民主主義や司法、行政がうまく機能していれば、
それら対立は公共の利益に反しない範囲で公平に扱われ、または、法の下に裁かれる。
けれど、強力な権力を持った信念は、簡単に暴走してしまう。
そして、荒廃してゆくゴッサムシティ。
奈落のそこで怒りと恐怖を感じているブルース。
滅びゆく街を目の前にして、何も出来ない自分に対する怒り。
何も出来きないまま、もし街が失われしまうのなら、
自分はどのくらいの絶望を味わうのだろうか。そんな未来に対する恐怖。
それは純粋に彼の理想と正義感がもたらす怒りと恐怖なのだろう。
けれど、それだけでは奈落から這い上がれない。
命綱を外し、生命の危険の恐怖を感じる。
そして奈落から這い上がることができた、ブルース。
崇高な思想、信念、正義感。しかし、それよりは生きることへの渇望。
それがブルースを再び立ち上がらせたのだろう。
バットマンがゴッサムシティに帰って来た。
それを象徴するかのようにビルに灯されるバット・マーク。
正義を行いたい、しかし勇気がない無力な人々。
バット・マークは、そんな人々の背中を押すマーク、そして、
バットマンが行動するのは、そんな人々を助けるためなのだ。
自らの正義感、信念などが行動原理なのではない。
人から呼ばれ、人を助け、人に勇気を支える。
バットマンが、そんな存在であることにブルースは気づいたのではないのだろうか?
ゴッサムシティを救い伝説となった男、ブルース。
そして、ついに彼が仮面を脱ぐ時が来た。
後継者が見つかったから。
街に平和が戻ったから。
しかし、それ以上に感じた理由は、
彼がたとえマスクを脱いだとしても、バットマンは市民の心に宿り、
人々が正義を行おうとする時には、
勇気を与える存在に成り得たからなのではないだろうか?
伝説となった男。
彼は人々の心の中の象徴となり、
正義を行おうとする人々の勇気になったのだろう。
心の中のヒーローを描いた映画。
それは、公正な裁きを実施するうえで、
人が長い年月を掛けて考え出されたシステム。
刑が決まるまでに長い時間が掛かったり、
法の目をすり抜ける悪に無力であったりと、
完璧なシステムではないにしろ、
よりベターなシステムであるということが言えると思う。
一人の人間が悪を取り締まり、悪人に対する処罰を決め、それを実施する。
そんな巨大な権限を持つことを自らに課した男、ブルース・ウェイン。
それは、強い自制心と深い思慮が無ければ勤まらない役目。
ゴッサムシティを守るために自らの名誉を犠牲にすることも厭わない。
兵器になると分かれば核融合の技術も封印する。
それは悲しく感じるほどにストイックな決断。
前作では自らを犠牲にしゴッサムシティを救ったブルース。
そして8年間の間、世捨て人同然の生活を送る。
それは、彼が平和な世界に満足して引退したから、ばかりではない。
それは、恋人を失い失意の中で新しい一歩を踏み出せないから。
前作のラストで自らが汚れ役を買ってでたのも、
純粋に正義を守りたい、と考えたのではあろうが、それと同時に、
恋人を失って自業自得になってしまったから、とは考えすぎだろうか?
それらも相まって、理想の実現のために自身の人生の全てを犠牲にし、
捨て去り、世捨て人同然の生活を送るブルースが痛々しい。
しかし、再び闇に覆われようとするゴッサムシティ。
それを前にしてバットマンに戻りたい想いを抑えられないブルース。
正義を守りたいから、恋人が好きだった街を守りたいから。
警察に任せるべきだ、という助言を無視して、
自らの手で正義を行いたい、という欲求に従ってしまったブルース。
単純な勧善懲悪映画であれば、ベインを倒すことは純粋に正義だ。
しかし、この映画は、そんな単純な映画ではない。
ベインは私利私欲のために行動したのでもなければ、
自らの快楽のために暴力を振るったわけでもない。
影の同盟の信念のために、彼は戦ったのだ。
「シティは本当は市民のものなんだ」
富める者から貧しい者たちへの富の分配。
そして世界の浄化。
いわば、この映画で描かれているのは信念と信念との対決なのであり、
一方の信念を支持する者たちがいれば、他方を信じる者たちもいる。
民主主義や司法、行政がうまく機能していれば、
それら対立は公共の利益に反しない範囲で公平に扱われ、または、法の下に裁かれる。
けれど、強力な権力を持った信念は、簡単に暴走してしまう。
そして、荒廃してゆくゴッサムシティ。
奈落のそこで怒りと恐怖を感じているブルース。
滅びゆく街を目の前にして、何も出来ない自分に対する怒り。
何も出来きないまま、もし街が失われしまうのなら、
自分はどのくらいの絶望を味わうのだろうか。そんな未来に対する恐怖。
それは純粋に彼の理想と正義感がもたらす怒りと恐怖なのだろう。
けれど、それだけでは奈落から這い上がれない。
命綱を外し、生命の危険の恐怖を感じる。
そして奈落から這い上がることができた、ブルース。
崇高な思想、信念、正義感。しかし、それよりは生きることへの渇望。
それがブルースを再び立ち上がらせたのだろう。
バットマンがゴッサムシティに帰って来た。
それを象徴するかのようにビルに灯されるバット・マーク。
正義を行いたい、しかし勇気がない無力な人々。
バット・マークは、そんな人々の背中を押すマーク、そして、
バットマンが行動するのは、そんな人々を助けるためなのだ。
自らの正義感、信念などが行動原理なのではない。
人から呼ばれ、人を助け、人に勇気を支える。
バットマンが、そんな存在であることにブルースは気づいたのではないのだろうか?
ゴッサムシティを救い伝説となった男、ブルース。
そして、ついに彼が仮面を脱ぐ時が来た。
後継者が見つかったから。
街に平和が戻ったから。
しかし、それ以上に感じた理由は、
彼がたとえマスクを脱いだとしても、バットマンは市民の心に宿り、
人々が正義を行おうとする時には、
勇気を与える存在に成り得たからなのではないだろうか?
伝説となった男。
彼は人々の心の中の象徴となり、
正義を行おうとする人々の勇気になったのだろう。
心の中のヒーローを描いた映画。