2013.01.10.Thu / 18:21
「ネタバレ」あり。ご注意願います。
取り返しのつかない罪を犯してしまった女性。
罪の大きさ故に自分を許せず、
この世界から逃亡することを願ってしまう。
しかし、いくら逃避してみても、
心を深く閉ざしてみても、
罪の意識は無くならない。
心の重みは消えて無くならない。
けれど、他人とのふれあいの中で知る、
自分を赦す事の大切さ。
最後に彼女のとった選択。
それは、逃げる事をやめたという選択。
そして、その選択の先に見えた自身の可能性。
自らを赦すことのへの険しい道。
しかし、避けては通れない道。
自らを赦すことの大切さが印象深い映画。
空に浮かぶ、もう一つの地球がとても美しくてファンタジック。
しかし、この映画では、それ以上の意味を持って、
この映画にインパクトを与えている。
別世界と、そこに居ることの孤独。
自分の罪を知る人が居ない世界への逃避に走る自分。
そして、もう一人の自分は今の自分をどう考えているのか?
それらも印象深い映画。
17歳でMITに合格を果たしたローダ。
しかし、交通事故が全てを狂わせてしまう。
4年間の刑期の後に見えた世界。
それは彼女が事件を犯してしまった後の世界。
ローダにとっては、世界が自分を見る目はとても冷たいと感じてしまう孤独な世界。
だから、人から遠ざかりたいと考えてしまう。
もう一つの地球に行きたい。
それは、現実と罪の意識からの逃避なのだろうか?
それとも、
自身をこの世界から消してしまいたいと願う、後悔にも似た感情からなのだろうか?
あるいは、
自身に危険な旅という、更なる戒めを課して、罪を償おうという想いからなのだろうか?
しかし、現実問題として逃げることはできない。
自分の居る世界からも。
自分が抱える罪の意識からも。
職場で知り合った老人。
「全てを受け入れるんだ」
「自分を許して」
自分に投げかけるには、とても難しい言葉。
けれど他人にならば、容易に投げかかることが出来る、優しい台詞。
あなたは、なぜ自分が耳と目を潰したのか、理解できるはずだ。
お互いが理解している、お互いの苦しみ。
それ故に相手に投げかける言葉も自分への言葉になることが出来るのだろう。
別な地球には自分自身が存在している。
果たして自分から見れば、今の自分はどのように映るのか?
否定されるのだろうか。あるいは、肯定してくれるだろうか。
別な地球への切符を手に入れ、
しかし交通事故の被害者であるジョンに譲ってしまうローダ。
譲るという行為自身は、ジョンに現実逃避を勧めているようでいて、
そして別な地球に居る別なジョンの問題も相まって、
その提案自身には、違和感を覚えてしまう。
けれど、ローダにとっては、逃避ではなく地球に残る選択をしたという点で、
現実から逃げるのを止めたようにも感じられた。
最後に出会った別な地球の別なローダ。
ストーリーを整合して考えれば、あの事故は別な地球では起こっておらず、
ジョンは家族に無事に会えて、彼は別なローダに事情を説明し、
別なローダがこちらに来たことになる。目的はローダの魂の救済であろう。
それは、すなわち、ジョンは救われ、別な自分は今の自分を肯定したことになる。
そう解釈すれば、それは、とても幸せなラストだと思える。
けれど、別な意図も込められたラストのようにも感じられる。
多分、ローダは事故以来、一切車は運転しなかったのだろう。
そして、ガレージにすら近づくのにも勇気が必要だったように感じられる。
それは、ラストでガレージに近づいていったローダから、若干の戸惑いを感じたからだ。
けれど、その戸惑いを完璧ではないにしろ、克服できたのは、すなわち、
やるだけのことをやって、苦しみぬいた末にたどり着けた赦しということなのだろう。
そして、その先に見えた自分、それは事故が起こる前に理想としていた未来の自分であり、
今でも自身の中に可能性として残されている未来の自分なのだろう。
ラストからは、そんなことを感じた。
自らを赦すことのへの険しい道。
しかし、避けては通れない道。
自らを赦すことの大切さが印象深い映画。
それは、現実と罪の意識からの逃避なのだろうか?
それとも、
自身をこの世界から消してしまいたいと願う、後悔にも似た感情からなのだろうか?
あるいは、
自身に危険な旅という、更なる戒めを課して、罪を償おうという想いからなのだろうか?
しかし、現実問題として逃げることはできない。
自分の居る世界からも。
自分が抱える罪の意識からも。
職場で知り合った老人。
「全てを受け入れるんだ」
「自分を許して」
自分に投げかけるには、とても難しい言葉。
けれど他人にならば、容易に投げかかることが出来る、優しい台詞。
あなたは、なぜ自分が耳と目を潰したのか、理解できるはずだ。
お互いが理解している、お互いの苦しみ。
それ故に相手に投げかける言葉も自分への言葉になることが出来るのだろう。
別な地球には自分自身が存在している。
果たして自分から見れば、今の自分はどのように映るのか?
否定されるのだろうか。あるいは、肯定してくれるだろうか。
別な地球への切符を手に入れ、
しかし交通事故の被害者であるジョンに譲ってしまうローダ。
譲るという行為自身は、ジョンに現実逃避を勧めているようでいて、
そして別な地球に居る別なジョンの問題も相まって、
その提案自身には、違和感を覚えてしまう。
けれど、ローダにとっては、逃避ではなく地球に残る選択をしたという点で、
現実から逃げるのを止めたようにも感じられた。
最後に出会った別な地球の別なローダ。
ストーリーを整合して考えれば、あの事故は別な地球では起こっておらず、
ジョンは家族に無事に会えて、彼は別なローダに事情を説明し、
別なローダがこちらに来たことになる。目的はローダの魂の救済であろう。
それは、すなわち、ジョンは救われ、別な自分は今の自分を肯定したことになる。
そう解釈すれば、それは、とても幸せなラストだと思える。
けれど、別な意図も込められたラストのようにも感じられる。
多分、ローダは事故以来、一切車は運転しなかったのだろう。
そして、ガレージにすら近づくのにも勇気が必要だったように感じられる。
それは、ラストでガレージに近づいていったローダから、若干の戸惑いを感じたからだ。
けれど、その戸惑いを完璧ではないにしろ、克服できたのは、すなわち、
やるだけのことをやって、苦しみぬいた末にたどり着けた赦しということなのだろう。
そして、その先に見えた自分、それは事故が起こる前に理想としていた未来の自分であり、
今でも自身の中に可能性として残されている未来の自分なのだろう。
ラストからは、そんなことを感じた。
自らを赦すことのへの険しい道。
しかし、避けては通れない道。
自らを赦すことの大切さが印象深い映画。