役割を与えられ、状況が設定されれば、
それまでの人格が失われ、人はいかようにも変わってしまう。
人はどこまでも、残酷にも、卑屈にもなりうる。
しかし、そこにいたるまでの過程は、
予想以上に深みのある映画でした。
最初は、わけ隔てない、同じ人間同士だったはずなのに、
看守と囚人に分けられる被験者達。
状況が設定され、集団に別けられたが故に始まる
集団と集団との対決。
相手になめられれば、やられてしまう。
いかに相手側の集団から優位に立つか?
そんな緊張が争いをエスカレートさせてゆきます。
しかし、いつしか集団と集団との間の憎しみが、
個人と個人の憎しみに変わってゆきます。
そして、それは個人同士のプライバシーへの攻撃。
状況が安定してくると、
集団のもとに一致団結していたはずの個人が、
皮肉なことに、様変わりを見せて来ます。
優位な集団の中にあっても、集団の意思には逆らえない者。
集団の力を個人の力と錯覚する者。
相手側からの押し付けを拒む者。
同じ集団に属していても波風を立てる者を忌む者。
狂気にほんろうされながらも、
主人公がかろうじて正常を保っていられたのは、
外界とのつながり、つまりドラのことを、
強く想っていたからなのでしょう。
しかし、すでに定まってしまった流れを、
変える力は、誰も持っていませんでした。
そんな中でくすぶり続ける
歯止めの利かない闘争心、復讐、残酷さ。
ついに始まる全面戦争。
戦争とは、このようにして起こるのでしょうか?
ファシズムとは、このようにして成り立つのでしょうか?。
自分は大丈夫という人間は、
この映画の顛末を知っているから、そう思えるのでしょう。
しかし、そうは、ならないと思っていても、
一歩狂気の世界に踏み込めば、
この流れには、個人では、
到底抗うことは出来ないのではないのでしょうか?
役割と状況の設定による個人の喪失というには、
あまりにも濃い内容。