それは、とても難しい望み
親しい人々に裏切られたギルバートの母親
しかし、最後には救われる
裏切る父親もいたが、本当に信じてもよい息子もいたからだ
「光り輝く甲冑を身に着けた王子様」
ギルバートは「よい人」になれたのだ
最後にギルバートは、アーニーと旅立つ
彼の「よい人」になるための旅はまだ終わらない
人生にはいろいろな生き方があります。
夢にまっすぐ進んでいくような生き方。
そのような生き方を決して否定するわけではありませんが、
自らの夢よりも、自分を頼りにする人々や家族の生き方を尊重する
やさしくて不器用な生き方もあります。
普通、映画にしやすい生き方といえば、圧倒的に前者のような生き方です。
しかし、この映画では後者の生き方が描かれています。
さらには、後者の映画によくありがちな
主人公がいわゆる聖人君子のように描かれるようなことは、この映画にはありません。
時にはいらいらする様子が、リアルに描かれています。
そして、最後には、後者の行き方でしか得られない幸せについても語っています。
それは、樹になった実が熟して、その重みで自然に落ち、手に入るような幸せ。
自分が自分の生き方に正直に生きてこれたことに対する思い。
夢に向かってまっすぐ生きた人間に訪れるものとは違った種類の幸せ。
劇的でもなく、どこからかスポットライトが当たるわけでもなく、
大勢の人間に感謝されたり、賞賛されるわけでもない。
でも、自分や、ごくわずかな周りの人間だけがそれを知っている。
この映画では、そんな幸せも描いています。
ギルバートの生き方は「自分を失った生き方」なのでしょうか?
私は、それは違うと思います。
映画では,ギルバートは「いい人になりたい。」と言っています。
いい人とはなんでしょうか?
いい人とは難しい生き方です。
それは、忍耐がいるとか、そんなではありません。
いい人には、何百種類もあって、その中から自分にあった生き方を見つけ、
最後までそれに従うということは、とても難しいことなのではないのでしょうか?。
この映画では、映画の後半に、「2つの救い」「2つの救い方」が描かれています。
川に入りたがらないアーニーを川に誘うベッキー。
そして、母親から逃げなかったギルバート。
どちらも、お互いには、まねはできないであろう生き方であり他人への接し方でした。
川に入らないアーニーに対して、辛抱強く、川に入ることを待つベッキ―。
川に入れることをあきらめかけているギルバートとは違い、
あくまでアーニーが入ることを信じて誘い、でも、強制はしませんでした。
たとえば、アーニーを専門の学校に預けて自立を促す救い方もあるかもしれません。
また、母親には、自分の立場を考えるように説教することも可能です。
ですが、ギルバートやベッキ―はしませんでした。
それは、自分にあわない生き方、救い方だからだと思います。
そして、そのような生き方は、決して「自らを失った生き方」ではないと思います。
そこには、その人間の個性、思い、性格が強く反映されているからです。
そしてなによりも、自分がそうなりたいと望んでいる生き方だからです。
母親も息子たちを解放するために、死を選んだのでしょうか?
それも違うと思います。
母親はギルバートの中に、自分が求めていた答えを見つけたから安心し、
もう死んでもいいと考えたのではないかと、私には思えました。
その答えとは「人とは信用できるのか?」です。
二人の親しい人に裏切られた彼女の人生。
事情も説明せず自殺した夫。自分から逃げ出した長男。
人間とは、悲しいものです。失ったものばかりを思い、
目の前にあるものを見ようとはしません。
でも、ギルバートの献身的な愛情に、最後には気づきました、
自分のそばにいた「光り輝く甲冑を身に着けた王子様」を。
自分で気づかなければ、意味も価値もないこの事実。
だからこそ、安心できた、ベットにも安心していけたんだと思います。
そして、答えを見つけたからこそ、安らかに死んでいけたんだと思います。
そして、最後にギルバートに訪れる幸せ。
母親や家から開放されたから、彼は幸せになったのでしょうか?
それも違うと思います。
自分の生き方で、最後まで生きたからこそ、得られた幸せなのだと思います。
そして、その生き方は終わりませんでした。
だから、ギルバートとアーニーは最後まで一緒にいます。
最後に私が、この映画でもっとも好きなシーンのひとつを紹介します。
それは、ベッキーとベティ、ギルバートの三角関係の会話。
「彼女を忘れない?」
「ああ」
嫉妬としょうがないなあという気持ち、そして安心。
「よかった。」
私の思い通りの人だったことを再確認した瞬間。
なんとも素敵な会話でした。