2003.05.31.Sat / 22:32
「ネタバレ」あり。ご注意願います。
なにが、いけなかったのか
自分が悪かったのか?
できるのなら、過去からやり直したい
そして、自分を消し去りたい
そんな救われない人間の叫びが響く映画
難解な映画です。
しかし似たような映画と比べた場合、かなりメッセージ色が強くなっています。
既成概念への疑問、ことなかれ主義の教育に対する批判、等々。
また、この映画自身、いろいろな解釈が可能です。
私の解釈も一例としてお読みください。
まず、結論から言います。
この映画はすべて、罪の意識にさいなまれたドニーの構築した妄想です。
つまり、現実の世界において、映画とは違った形で、
学校に洪水を起こし、家を放火し、最後には人を殺してしまった、
ドニーが描いた妄想なのです。
それじゃ、何でもありじゃないか、
と文句が聞こえてきそうなのですが、
まあ以下の私の考えをまずは読んでてください。
まず、この映画ではドニーはさまざまな悪事を働きます。
しかし、彼にとっては、「やむを得ず実施してしまった悪事」となります。
すべては「ウサギ」にそそのかされて、、、
悪いのはウサギなのです。
なぜだかわかりませんが、自分を責めているウサギの存在。
映画の最後でドニーが殺してしまうウサギが諸悪の根源なのです。
銃をもたらしたものも、意味不明な自分とは別なものです。
銃は、決して欲しくて手に入れたものではなく、導かれて手に入れたものなのです。
さらに、上記のことからわかることの一つは、
彼は、最初から意識下ではすべてを知っていたにもかかわらず、
知らないように振るまっている点です。
ウサギの目を包丁(ナイフ?)で刺しているのも象徴的です。
映画で表現されている学校でのカウンセリングにおいては、
実は彼のほうがまともなことをいっています。
正しいのは彼であり、間違っているのは常識を持ったはずの先生、大人なのです。
しかも大人はそれを認めようとはしません。
困ってしまうと彼を会場から追い出してしまいます。
「複雑」対「単純化」の戦い。
しかも、ドニーが正しいことが、すごくわかりやすく描かれています。
さらに、放火をした結果、カウンセラーの素顔がばれてしまいます。
放火の罪よりも、彼の素顔がクローズアップされてしまい、
さらには、間接的にではありますが、ドニーが正しかったことが証明されます。
そして、意味もなく取り付かれていく「過去をやり直したい」願望
最後には、すべてを自分で引き受け、
自分の存在を抹殺することで彼の周りの人間を救います。
彼のこの行いは、周りの人間は知らないことになっています。
人の知らない所での自己犠牲。
とてもカッコいい、この孤独な決断は、彼の善意を示しています。
しかし、それによって救われた彼女はドニーのことを
意識の片隅に覚えているようなそぶりを示します。
ドニーにとって、願望どおりの展開と思えてなりません。
この映画は、犯罪者であるドニーにとってはとても居心地のよい展開なのです。
以上が、私の「妄想説」の根拠です。
ない知恵を絞って考えました。説明のつかない点はあるかもしれません。
私の説より、よいアイデアもあるかもしれません。
それでも、まあ、80点くらいはいただけるのではないのでしょうか?
きっと、ドニーは本当は良い青年なのでしょう。
しかし、何かの弾みで、本当に些細なことで、
ボタンを掛け間違い、大人達と断絶し、
学校に洪水を起こし、家を放火し、最後には人を殺してしまったのでしょう。
そして、この映画のような妄想を思い浮かべたのではないのでしょうか?
ドニーの、「こんなはずではなかった」という思い。
「自分の存在を消してまでも、罪を帳消しにしたい。」
という叫びが聞こえてきそうです。
この映画はすべて、罪の意識にさいなまれたドニーの構築した妄想です。
つまり、現実の世界において、映画とは違った形で、
学校に洪水を起こし、家を放火し、最後には人を殺してしまった、
ドニーが描いた妄想なのです。
それじゃ、何でもありじゃないか、
と文句が聞こえてきそうなのですが、
まあ以下の私の考えをまずは読んでてください。
まず、この映画ではドニーはさまざまな悪事を働きます。
しかし、彼にとっては、「やむを得ず実施してしまった悪事」となります。
すべては「ウサギ」にそそのかされて、、、
悪いのはウサギなのです。
なぜだかわかりませんが、自分を責めているウサギの存在。
映画の最後でドニーが殺してしまうウサギが諸悪の根源なのです。
銃をもたらしたものも、意味不明な自分とは別なものです。
銃は、決して欲しくて手に入れたものではなく、導かれて手に入れたものなのです。
さらに、上記のことからわかることの一つは、
彼は、最初から意識下ではすべてを知っていたにもかかわらず、
知らないように振るまっている点です。
ウサギの目を包丁(ナイフ?)で刺しているのも象徴的です。
映画で表現されている学校でのカウンセリングにおいては、
実は彼のほうがまともなことをいっています。
正しいのは彼であり、間違っているのは常識を持ったはずの先生、大人なのです。
しかも大人はそれを認めようとはしません。
困ってしまうと彼を会場から追い出してしまいます。
「複雑」対「単純化」の戦い。
しかも、ドニーが正しいことが、すごくわかりやすく描かれています。
さらに、放火をした結果、カウンセラーの素顔がばれてしまいます。
放火の罪よりも、彼の素顔がクローズアップされてしまい、
さらには、間接的にではありますが、ドニーが正しかったことが証明されます。
そして、意味もなく取り付かれていく「過去をやり直したい」願望
最後には、すべてを自分で引き受け、
自分の存在を抹殺することで彼の周りの人間を救います。
彼のこの行いは、周りの人間は知らないことになっています。
人の知らない所での自己犠牲。
とてもカッコいい、この孤独な決断は、彼の善意を示しています。
しかし、それによって救われた彼女はドニーのことを
意識の片隅に覚えているようなそぶりを示します。
ドニーにとって、願望どおりの展開と思えてなりません。
この映画は、犯罪者であるドニーにとってはとても居心地のよい展開なのです。
以上が、私の「妄想説」の根拠です。
ない知恵を絞って考えました。説明のつかない点はあるかもしれません。
私の説より、よいアイデアもあるかもしれません。
それでも、まあ、80点くらいはいただけるのではないのでしょうか?
きっと、ドニーは本当は良い青年なのでしょう。
しかし、何かの弾みで、本当に些細なことで、
ボタンを掛け間違い、大人達と断絶し、
学校に洪水を起こし、家を放火し、最後には人を殺してしまったのでしょう。
そして、この映画のような妄想を思い浮かべたのではないのでしょうか?
ドニーの、「こんなはずではなかった」という思い。
「自分の存在を消してまでも、罪を帳消しにしたい。」
という叫びが聞こえてきそうです。