2010.02.16.Tue / 22:38
「ネタバレ」あり。ご注意願います。
50年前のタイムカプセルに保存されていた予言書。
一見意味のない数字の羅列。
しかし、そこに隠されていた重大な秘密。
そして起こってしまう大惨事。
数列の謎解きと、大惨事の圧倒的な迫力。
しかし、それ以上に印象に残るのは、
この映画で描かれる現実の冷たさ。
物事は既に定まっているが、そこには意味がない。
信じる者は神と信じていた者から与えられる救済ではなく、
自らが信じたことでのみ、自らを助けなければならない。
選ばれし者の基準は信仰心でもなければ隣人愛でもない。
本当にそんなことを描いてしまって良かったのだろうか?
現実を達観した思想で描いた映画。
ジョンは、妻を亡くし、
この世界は偶然成り立っていると絶望してしまった男。
しかし、本心では、そうでないことを誰かに証明して欲しい、
と考えているように見える。
偶然手に入れた予言の数字列。
彼がこの予言に執拗にのめり込む理由は、
やはり、この世界が必然で成り立っていて、
そこには何かしらの意味があると信じたいからであろう。
ジョンが予言に導かれるままに目撃した事故現場の凄まじさ。
容赦ない迫力で迫る、それらのシーンは、
とりもなおさず、生き残る人と生き残れない人の差が紙一重であり、
それは偶然で成り立っていることを強く感じざるを得ない。
そして、ジョンが発見した絶望的な人類の行く末。
このシーンには鳥肌が立つほどの衝撃がある。
しかし、それ以上に衝撃を受けるのは、
この映画がシビアに描く現実の冷たさ、世界観のドライさ。
この世界は必然で成り立っている、しかし、そこには意味が無い。
ジョンの妻が死んだのも、定められている結果であり、
それ以上でも、それ以下でもない。
それは、大惨事に遭遇して生き残れるのか、死んでしまうのかでさえ。
幸か、不幸か、世界の終わりが近づいている事を知るジョン。
しかし、それにも、まったく意味が無い。
ジョンが予言を知り、その意味を求め、
被害を最低限に抑えようと努力する。
けれど、それをあざ笑うかのごとく、犠牲者は定められた数字。
定められたことは変えられない。それを知っていても、知らなくとも。
世界は定められた通りに終わりを向かえ、
定められた通りに人々は死んでゆく。
この映画で描かれる宇宙人。
彼らは単なる、他の星から来た生物ではない。
彼らは、我々に予言を伝える存在。
我々が神と信じる存在なのだろう。
しかし、彼らが選ぶ生存者の選択基準は、
我々が想像している基準とは大きく異なる。
単に、彼らの声が「聞こえるか」「聞こえないか」である。
多分、その理由には次の星で生活するために必要だとか、
彼らの声が聞こえなければ不都合があるとか、
何かしらの合理的な理由があるのだろう。
しかし、我々が考える、最後の審判に生き残れる者の基準、
神が救済をしてくださるであろう基準ではない。
家族愛、信仰心、などとは無縁の基準なのである。
ただ、単に娘を助けたかっただけのダイアナ。
ダイアナにとっては、娘は自分の全て。
しかし、娘を助けるためだけに取った、誤ったのかもしれない行動。
それらは裏目にでて、事故によりダイアナは死んでしまう。
愛の為の行動であっても、事故が起これば死ぬしかないのだ。
非常にドライな世界観。
だからといって、この映画の世界観を否定はできない。
むしろ、合理的に突き詰めれば、あり得る解釈ですらある。
最後に父親と和解できたジョン。
この世界は滅びる、そして自分たちも死ぬ。
そこには、なんの意味も無い。ただ定められているから。
神と考えていたものは、単に彼らの科学力が進んだ結果、
定められた世界を見通すことができるようになった宇宙人。
信仰心や家族愛、日々の善行などとは無関係に、
助かる人、死に逝く人が選ばれる。
そんな絶望的な事実を突きつけられてさえ、
家族愛の中に安らぎを見出して死んでいったジョン。
生とか死とかとは無関係に、そして、神の存在とも無関係に、
魂の救済は存在するのだろう。
本当にそんなことを描いてしまって良かったのだろうか?
現実を達観した思想で描いた映画。
容赦ない迫力で迫る、それらのシーンは、
とりもなおさず、生き残る人と生き残れない人の差が紙一重であり、
それは偶然で成り立っていることを強く感じざるを得ない。
そして、ジョンが発見した絶望的な人類の行く末。
このシーンには鳥肌が立つほどの衝撃がある。
しかし、それ以上に衝撃を受けるのは、
この映画がシビアに描く現実の冷たさ、世界観のドライさ。
この世界は必然で成り立っている、しかし、そこには意味が無い。
ジョンの妻が死んだのも、定められている結果であり、
それ以上でも、それ以下でもない。
それは、大惨事に遭遇して生き残れるのか、死んでしまうのかでさえ。
幸か、不幸か、世界の終わりが近づいている事を知るジョン。
しかし、それにも、まったく意味が無い。
ジョンが予言を知り、その意味を求め、
被害を最低限に抑えようと努力する。
けれど、それをあざ笑うかのごとく、犠牲者は定められた数字。
定められたことは変えられない。それを知っていても、知らなくとも。
世界は定められた通りに終わりを向かえ、
定められた通りに人々は死んでゆく。
この映画で描かれる宇宙人。
彼らは単なる、他の星から来た生物ではない。
彼らは、我々に予言を伝える存在。
我々が神と信じる存在なのだろう。
しかし、彼らが選ぶ生存者の選択基準は、
我々が想像している基準とは大きく異なる。
単に、彼らの声が「聞こえるか」「聞こえないか」である。
多分、その理由には次の星で生活するために必要だとか、
彼らの声が聞こえなければ不都合があるとか、
何かしらの合理的な理由があるのだろう。
しかし、我々が考える、最後の審判に生き残れる者の基準、
神が救済をしてくださるであろう基準ではない。
家族愛、信仰心、などとは無縁の基準なのである。
ただ、単に娘を助けたかっただけのダイアナ。
ダイアナにとっては、娘は自分の全て。
しかし、娘を助けるためだけに取った、誤ったのかもしれない行動。
それらは裏目にでて、事故によりダイアナは死んでしまう。
愛の為の行動であっても、事故が起これば死ぬしかないのだ。
非常にドライな世界観。
だからといって、この映画の世界観を否定はできない。
むしろ、合理的に突き詰めれば、あり得る解釈ですらある。
最後に父親と和解できたジョン。
この世界は滅びる、そして自分たちも死ぬ。
そこには、なんの意味も無い。ただ定められているから。
神と考えていたものは、単に彼らの科学力が進んだ結果、
定められた世界を見通すことができるようになった宇宙人。
信仰心や家族愛、日々の善行などとは無関係に、
助かる人、死に逝く人が選ばれる。
そんな絶望的な事実を突きつけられてさえ、
家族愛の中に安らぎを見出して死んでいったジョン。
生とか死とかとは無関係に、そして、神の存在とも無関係に、
魂の救済は存在するのだろう。
本当にそんなことを描いてしまって良かったのだろうか?
現実を達観した思想で描いた映画。